伊能忠敬

皆さんもご存じの通り、初めて実測による日本地図を完成させた人です。

伊能忠敬は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家で、49歳から測量の道に進んだそうです。

なぜ日本地図を作ったのか?

それは1795年頃、江戸ではそれまで使われていた暦を改める動きがあった。

当時の日本は1754年に作られた宝暦暦が使われていたのだが、日食や月食の予報を度々外しており評判が悪く、幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時らに任務を任せたことがきっかけらしい。

高橋至時の弟子だった伊能忠敬は50歳。

当時じゃ今よりも寿命が短かったのに、この年齢から勉強するなんてすごい!

忠敬と至時が地球の大きさについて思いを巡らせていたころ、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が強まってきていた。寛政4年(1792年)にロシアの特使アダム・ラクスマンは根室に入港して通商を求め、その後もロシア人による択捉島上陸などの事件が起こった。日本側も最上徳内、近藤重蔵らによって蝦夷地の調査を行った。また、堀田仁助は蝦夷地の地図を作成した。

至時はこうした北方の緊張を踏まえたうえで、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出た。蝦夷地を測量することで、地図を作成するかたわら、子午線一度の距離も求めてしまおうという狙いである。そしてこの事業の担当として忠敬があてられた。忠敬は高齢な点が懸念されたが、測量技術や指導力、財力などの点で、この事業にはふさわしい人材であった。

改暦作業をするうえで高橋至時や伊能忠敬は、暦をより正確な物とするためには、地球の大きさから、日本各地の経度・緯度がわからないと作れない、ということに気づいたのです。 よって日本の正確な形を知りたい、ということがメインではなく、あくまで暦の算出のために日本の正確な地図が必要であったために、幕府に願い出たのです。

寛政12年(1800年)に測量の許可が下り出発。この時の忠敬の年齢は56歳。

初日は間縄を使って距離を丁寧に測ったいたが、あまりに時間がかかりすぎるため、2日目以降は歩測に切り替えたらしいです。

第一次測量(北海道)→第二次測量(伊豆・東日本東海岸)→第三次測量(東北日本海沿岸)→第四次測量(東海・北陸)→第五次測量(近畿・中国)→第六次測量(四国)→第七次測量(九州第一次)→第八次測量(九州第二次)→第九次測量(伊豆諸島)→第十次測量(江戸幕府)と17年もかけて日本全国を歩き回って測量した。

1817年から地図の作成作業をしていたのだが、喘息が悪くなり衰えていき、1818年に弟子たちに見守られながら74歳で生涯を終えた。

地図はまだ完成していなかったため、忠敬の死を隠して弟子たちが作業を続け、1821年に「大日本沿海輿地全図」を完成させたのである。

歩測で測量したことも驚くのだが、もっとすごいのは精度。

忠敬が求めた緯度1度の距離は、現在の値と比較して誤差がおよそ1,000分の1。

わかりやすく表でみると

イメージしやすい水平距離で見てみると誤差70㎝以内で、現行の日本地図と比較してもその差わずか0.2%。

衛星も何もない200年前の江戸時代に、驚異の正確性を誇る地図を地球1周分の距離を歩いて測量し、日本地図を完成させた伊能忠敬とその部下たち。

調べれば調べるほど凄いなぁと思う私は、今現在、今の時代に沿った測量技術のプロを目指して、日々奮闘中です。

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